北京の中軸線は、北の鐘鼓楼から南へ向かって、万寧橋、景山、故宮を経て永定門まで、古都を南北に貫いている。全長は約7.8キロで、元の時代の1267年に初めて建設され、明・清の時代から近代にかけて形成され、完成までに700年以上の歳月が費やされた。北京の中軸線にある建築群は、厳密な対称性と整然とした景観を持ち、都市建設における「中をもって尊しとなす」(皇権と神権との結合)という伝統的概念を体現しており、都市を通じて社会秩序を構築し、社会生活を規制しようとする考えが反映されている。中国に現存する最も壮大で保存状態の良い都市の中軸線として、中国の都市計画が成熟期に至るまでの発展の模範となっている。
北の中央台から南の麗正門まで続く元の都市「大都」(だいと)の中軸線は、その後何世紀にもわたる北京城の基調を定めた。大都の中軸線は北京城全体を貫くのではなく、南部のみに位置した。北京特有の壮大な秩序はこの中軸線の確立によって生み出されたのである。
明代初期に北京城の中軸線は延長され、北端は永楽年間に新たに建設された鐘楼まで、南端は新しい麗正門(後に正陽門に改称)まで延びた。紫禁城、万歳山(後の景山)、太廟、社稷壇、天地壇(後の天壇)、山川壇(先農壇)といった、中軸線上の重要地点もこの時期に形成された。明代中後期の嘉靖年間には外城が築造され、先農壇と天壇が城内に組み入れられ、中軸線は永定門まで延長され、全長7.8キロに達した。その後、中軸線の全体構造はほぼ安定した。
清の時代における最も顕著な変化は、乾隆年間に寿皇殿が景山の北東角から景山の真北の中軸線に移築されたこと、そして、景山に5つの亭(あずまや)が建設され、中軸線の最高点が確立されたことである。
1914年、社稷壇が中央公園として一般に開放されたことをきっかけに、北京の中軸線は一般公開の道を歩み始め、改修を重ねるようになった。中でも最大規模の改修となったのは天安門広場で、その設計は北京中軸線の計画理念を継承しており、それに基づいて人民英雄記念碑、人民大会堂、中国革命博物館、中国歴史博物館(現在の中国国家博物館)、毛主席記念堂が次々と建設された。
人々の文化財保護の意識と、北京の中軸線の価値への認識が向上したことで、文化財の保護、歴史に関する環境の整備、失われた歴史的建造物の復元作業などが展開されるようになった。そして2011年、北京中軸線の世界遺産への登録申請が始まり、2013年に北京中軸線はユネスコの「世界遺産暫定リスト」に登録された。2022年は北京中軸線の登録申請における重要な年であり、正式な申請書類の提出が完了する予定となっている。
(情報提供:ミニプログラム「雲上中軸」、WeChat公式アカウント「北京中軸線」)