山梆子戯(さんほうしぎ)は房山区レベルの無形文化遺産です。北京市房山区蒲窪郷蘆子水村は、北京の「小西蔵」の異名を持つ蒲窪郷にあります。深い山に囲まれ、外界との往来が多くなかったことから、六百年以上の時間をかけ、豊富な民俗文化を育んできました。山梆子戯は、この人口千人に満たない小村が持つ、独特な演劇様式です。山梆子戯の演目は甚だ多く、百二十余りあります。唱腔(節回し)には張りがあって力強く、優美なメロディーと、はっきりと明瞭な板式(節回しの一種)を持ちます。悠久の歴史があり、三百年以上にわたって伝承されてきました。人々もこれを観て楽しみ喜びます。大衆から大きな人気を得た地方劇の一つです。
(写真提供:北京市房山区人民政府)
梆子腔(梆子と呼ばれる拍子木を叩きながら歌い語る地方劇の一種)の起源は陝西省にあります。陝西省は古くは秦に属していた土地であるため、梆子腔は秦腔とも呼ばれます。古の秦の人々が持っていた義憤に燃え、激高し、豪胆にふるまう気風が、秦腔の張りがあり激しく高ぶる基本的音調と、雄壮、悲憤の情緒の表現に長ける特徴とを形成しました。明の時代に、山西省、陝西省から移民がやって来るのに伴って、古い歴史を持つ梆子腔もまた北京市・天津市・河北省エリアに伝わり、それが河北梆子となり、村の人々から「山梆子」と呼ばれるようになりました。他の劇と異なり、山梆子はよりその土地に根差した山間部ならではの味わいを重んじました。山梆子戯班(戯班は小劇団の意)は三百年余りの歴史を持ちますが、かつては隗氏戯班と呼ばれ、清朝中期にはすでに40人以上の規模に成長していました。農閑期に稽古と公演を行いました。清朝末期には「天成班」と呼ばれるようにもなりました。
かつての山梆子戯は、輝かしい歴史を持ち、隗氏一族によって演じられていたことから、山梆子戯班は隗氏戯班とも呼ばれていました。この時代、隗氏戯班の山梆子は一絶(二つとない、最高)と称えられ、どこへ行っても大量のファンが観劇に駆け付けました。ある時、隗氏戯班が歌いながら山道を通り、街に入ったところ、偶然、乾隆帝がこれを耳にしました。帝は大いに賞賛し、「山奥であってもこれほど素晴らしい梆子戯を生み出せるのか。これはまさに天成(人の手によらず、自然に出来上がった)のものであろう」と考え、戯班に天成班の名を与えました。近代になると、戦乱のために山梆子戯は沈黙の時代に陥ることになりました。しかし、老人たちは変わらず山梆子戯のことを覚えており、忘れることはありません。近年、国が文化に対する保護力を強化していくに伴い、同村独特の山梆子戯もまた活力を醸成させています。山梆子関係者の老人たちが集まり、山梆子戯を復活させようと試み始めたのです。老人たちは繰り返し推敲し、稽古を重ね、古くから伝わる山梆子戯を徐々に完成させています。彼らは既に年老い、沈黙の時代に失った時間が戻ることはないにもかかわらず、山梆子に対する情熱は終始変わることがありません。記録映像を見てみると、楽観的、積極的視点から、老人たちが若々しい活気に満ちて努力を払っている様子が映し出されます。これまでもこれからも、夢というものに年齢は無関係なのです。彼らが山梆子戯のために望んで奔走させるよう仕向けているのは、彼らの最も誠実な内心の力と山梆子戯に対する心からの愛です。
(情報提供:北京市房山区文化・観光局)