頤和園は、中国に現存する最大規模の、最も完全な状態で保存されている皇室庭園で、中国の四大名園(他の3つは承徳の避暑山荘、蘇州の拙政園、蘇州の留園)の一つである。北京市海淀区にあり、北京の市街地から15キロ離れている。敷地面積は約290ヘクタールである。昆明湖、万寿山をベースに、杭州の西湖の風景をモデルとして、江南の庭園のいくつかの設計技術と境地を取り入れて完成させた大規模な天然山水庭園は、最も完全な状態で保存された皇室の離宮・御苑でもあり、皇室庭園の博物館と称されている。
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頤和園は、もとは清朝皇帝の離宮と庭園であった。前身の清漪園は、三山五園(三山は万寿山、香山、玉泉山を指す。三山の上にそれぞれ清漪園、静宜園、静明園という3つの庭園が作られ、この他に近くの暢春園と円明園も合わせ、総称して五園と言う)の中で最後に作られた庭園で、1750年に創建され、1764年に完成した。面積は290ヘクタールで、水面が約4分の3を占めている。
乾隆帝は即位の前、北京の西部郊外の一帯に、すでに4つの大規模な皇室庭園を作った。海淀から香山までのこの4庭園はそれだけで独自の体系を形作ったが、互いの間には有機的なつながりが不足しており、中間にある「瓮山泊」が一面広々とした地帯になった。乾隆15年(1750年)、乾隆帝は、母である孝聖憲皇后に対する親孝行のため、銀448万両を費やし、ここを清漪園に改築した。ここを中心に両側の4庭園が一つにつながり、現在の清華園から香山まで20キロもの長さに及ぶ皇室庭園地区が形成された。
咸豊10年(1860年)、清漪園は英仏連合軍によって焼き払われた。光緒14年(1888年)、西太后は海軍資金の調達という名目で、銀貨(専門家の考証によると、500万両から600万両の銀に相当)を流用した。様式雷と呼ばれる宮廷建築設計部局の第7代伝承者、雷廷昌が再建を担当し、頤和園と改称して、避暑と遊楽の地を作った。
光緒26年(1900年)、頤和園は、またしても「8か国連合軍」によって破壊され、多くの貴重な宝物がすべて略奪された。光緒29年(1903年)に修復された。その後、軍閥が入り乱れて戦い、国民党が統治していた時期に再び破壊された。1949年以降は、政府が絶えず資金を出して修繕を行い、1961年3月4日、頤和園は第一陣の全国重点文物保護単位として公布され、1998年11月に「世界遺産リスト」に登録された。2007年5月8日、頤和園は国家観光局によって、国家5A級観光地として正式に承認された。 2009年、頤和園は、中国世界記録協会の中国に現存する最大の皇室庭園に選ばれた。頤和園には、世界一、中国一のものが数多くある。
(情報提供:北京旅遊網)