王府井教堂
王府井教堂[写真提供:tuchong.com]
王府井教堂は王府井天主堂とも呼ばれ、北京四大カトリック教会の一つ。明代末期にイタリア人のロドヴィコ・ブーリオ(漢名:利類思)、ポルトガル人のカブリエル・デ・マガリャンイス(漢名:安文思)が創建した。東城区の重要文化財。
ローマ建築の風格を備えた教会で、中国と西洋の建築様式が融合したモデルとも言えよう。繁華街にありながらも、その神聖な雰囲気はすこしも損なわれていない。祭日の期間にふと教会前を通ると、重厚な電子オルガンの調べと合唱隊による陽光を思わせる歌声が伝わってきて、空気のなかで波打ち立つ。
住所:北京市東城区王府井大街74号
西什庫教堂
西什庫教堂[写真提供:tuchong.com]
西安門大街の北側、西什庫大街33号にある。北京最大のカトリック教会。北堂とも呼ばれる。
康熙皇帝はマラリアにかかり、宣教師が献上した西洋薬を服用して急速に回復したことから、謝意を示すため宣教師に土地を贈り、蚕池口にカトリック教会を建たせることにした。これが最初の北堂。光緒十二年(1886)に西苑三海を全面的に改修するとともに、清王朝は蚕池口教会の敷地を回収し、別に従来の西什庫の一部の土地に教会を建たせた。光緒十三年(1887)、真っ直ぐに聳え立つゴチック式の新しい北堂が完成。以前の北堂に比べより雄大、風格のある教会となった。
住所:北京市西城区西什庫大街33号
西直門教堂
西直門教堂[画像提供:tuchong.com]
西直門教堂は西城区西直門内大街130号にあり、聖母聖衣堂とも呼ばれ、俗称は西堂。
北京四大カトリック教会の一つ。康熙四十四年、ローマ教皇のクレメンス11世は中国で教皇の勅令を公示するため、シャルル=トマ・マヤール・ド・トゥルノン(漢名:多羅)枢機卿を特使として派遣した。随員であるラザリスト会のイタリア人宣教師であるテオドリコ・ペドリーニ神父(1670~1746)は、康熙皇帝の任命を受け、子弟に専門に西洋学を教えるため中国にとどまった。雍正元年、テオドリコ神父は西直門の土地を購入して天主教堂を建て、1764年12月10日に世を去るまで宣教活動に従事した。
テオドリコ神父がローマ教信部の派遣する神職者を受け入れたため、西堂はローマ教皇庁に直接属することになった。北京四大カトリック教会のその他の3教会はいずれもイエズス会が創建したもので、1773年になってローマ教皇庁がイエズス会の解散を発表したことで、ラザリスト会の管轄に帰属し、ローマ教皇庁の教会に直接属することになった。 清嘉慶十六年、清政府はカトリック教を厳しく禁じる命令を下し、カトリック教の宣教師は政府の奉職者を除き、すべて北京城内に住めなくなるとともに、宣教活動に従事することも許されなくなった。同年、西直門教堂の4人の神父は国外追放となり、教会は撤去され、不動産も没収された。
1860年の第2次アヘン戦争後、清政府と英仏などの合意に基づき、カトリック教が中国で活動する権利は回復された。同治六年、西直門教堂は再建されたが、1900年に義和団運動が勃発し、6月15日に義和団により再び破壊され、1923年になって従来の場所に3度目の教会が再建された。
住所:北京市西城区西直門内大街130号
宣武門教堂
宣武門教堂[画像提供:japanese.beijiing.gov.cn]
宣武門教堂は前門西大街141号にある。北京では歴史の最も長く、最も古いカトリック教会。 明代万歴三十三年(1605)、マテオ・リッチ(漢名:利瑪竇)神父がこの地に初めての教会を建てた。規模は非常に小さかったが、後にドイツ・イエズス会のアダム・シャール(漢名:湯若望)神父が1650年に北京城内に初めての大規模な教会、南堂を創建。順治皇帝がアダム・シャール神父と宣武門教堂に非常に関心を寄せ、24回も訪れただけでなく、扁額「通微佳境」も賜ったことから、南堂の当時の地位がわかるだろう。南堂は設備が整い、一般の宗教建築物のほかに天文台、蔵書楼、計器室といった科学設備を擁し、西洋の近代科学を中国に広めるうえで一定の推進的役割を果たした。
康熙四十二年に宣武門教堂の改修工事が始まり、10年後に欧州風の高大な建築物が完成。蚕池口天主教堂に次ぐ第2のヨーロッパ式の建築物となる。
康熙五十九年、地震のために南堂は損壊し、翌年にポルトガルのフェルディナン国王三世が出資して再建。欧州で当時非常に流行していたバロック式の建築風格を採用した。平面は十字形で、長さは約27メートル、幅は約15メートル、屋根はドーム状。
住所:北京市西城区前門西大街141号